岩坂彰の部屋

第14回 時代小説の楽しみ

岩坂彰

翻訳家としてはどうかと思うのだけれど、常盤新平さんというと、翻訳書よりも池波正太郎作品の解説を思い浮かべてしまいます。新潮文庫版の『剣客商 売』シリーズは、ほとんど常盤さんが解説を書かれているのではないでしょうか。何度も常盤さんの名前を目にしていたので、翻訳をする人間が時代小説を読む のは当たり前だと思っていたのですが、周囲に聞いてみるとそうでもないようですね。そんなわけで、今回はちょっと趣を変えて、時代小説の楽しみについて 語ってみようと思います。

1972年当時の新潮文庫版『赤ひげ診療譚』(左)と、その後買い直した1984年の版。昔のものはかなり手ずれがしてますね。なんと160円。1984 年版は380円で、現在は580円です。写真の赤ひげは小林桂樹、主人公はあおい輝彦。今気がついたけど、この文庫版の解説は中田耕治さんです。

たぶん私が最初に読んだ時代小説は、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』だったと思います。中学生のとき、テレビでドラマ化されたのがきっかけでした(デ ビュー当時の仁科明子(←以前はこの字でした)が出てました。しかしあのときの仁科明子は、どこへ行ってしまったのだ)。以降、高校時代まですっかり山本 作品にはまります。高校の修学旅行で山本周五郎原作の舞台を観劇するという企画があり、たしか現国の時間に国語の先生が、自分は読まないけれど山本周五郎 はどんな作品を書くのか知っている人はいるかい?と尋ねられたとき、私が「重い部分はあるけれども、基本的に人生を肯定する作品だ」と答えた記憶がありま す。今、読み直してみると、その「人生肯定」がナイーフに過ぎてやや鼻につくところがありますね。当時は私も素直だったんでしょう。

大学に入ると、この人こそ山本周五郎の正統な後継者であろうと目をつけた(今から思うと何とも思い上がった評価ですが)藤沢周平さんを読み始めま す。藤沢作品はいまでもときどき取り出して読み返します。数年前、NHK BSに各界の有名人が自分の好きな藤沢作品を10分か15分くらい語るという番組があって、毎週楽しみに見ていましたが、ほんとうにいろいろな読み方があ るものだと感心したものです。(「感心」というのはかなり婉曲な言い回しで、本当のことを言うと、「そんな読み方ってあり?」と思うことも多かったですけ どね。藤沢作品は数多く映像化されていますが、正直なところ、失望させられることが多いので、最近では最初から見ないようにしています。)でもまあ、私自 身、山本周五郎の受け取り方が昔と違っているように、優れた作品というのはいろいろな読み方を許すものなのでしょう。ちなみに、NHKの番組の中でただ一 人、私も藤沢作品のキーワードとして挙げるであろう「矜恃」という言葉を使っていらっしゃったのは、落合恵子さんです。

池波正太郎さんを読み始めたのはけっこう遅くて、翻訳の勉強を始めたころだったでしょうか。最初は独特の文体に馴染めず、これって日本語としてどうなの?とか思ってましたが、いつのまにか

この男を捕えることによって、
(さらに、大きな獲物が引っかかるやも知れぬ)
のである。

なんて表現にすっかり慣れてしまいました(念のため、丸括弧の中は、登場人物の心の中の台詞です)。『鬼平犯科帳』は10回以上読み返していると思います。

ここで、司馬遼太郎さんや柴田錬三郎さんの名前が出てこないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、史実に基づいた「歴史小説」というのは、 実はちょっと苦手です。私の好きな「時代小説」というのは、あくまでフィクションで、舞台がたまたま(たいてい)江戸時代に設定されているというだけなん ですね。そして、多くの場合、「犯人捜し」的なミステリの要素があります。

ある編集者に伺ったところでは、かつてのミステリの読者が、時代小説に流れているとのことです。言われてみれば、私自身も以前はかなりミステリを読 んでいて、クリスティの伝記まで翻訳したくらいですが、最近はさっぱり手が出なくなりました(そういえば常盤新平さんも、もと早川書房の編集者だ)。捕物 帖というのはもともとミステリ的なものですし、時代小説とミステリの読者が重なっていても不思議はありません。

ここ数年、書店の文庫のコーナーで「時代小説フェア」といったポップを目にすることが増えましたが、そういうことなんですね。「文庫書き下ろし」が 雪崩をうったように書店の棚に氾濫しています。私も片っ端から乱読してきました。こういうときには、数々の駄作(ごめんなさい。でも、たぶん締め切りに追 われて、ちゃんと校正すらしていないと思えるものもあるんです)の中から、これはと思えるものを見つけ出す楽しみがあります。最近の私のお気に入りは、風 野真知雄さんと築山桂さんです。

これまで、いろんなジャンルで一時的な乱読というのをしてきましたが、その都度思うのは、「駄作」もあっていいということです。駄作というのは ちょっと言い過ぎかもしれませんが、まず書く側から言うと、挑戦の過程として「失敗作」は必ず出てくるはずです。最初から傑作ばかりを書ける人はいませ ん。では、読者はお金を出して失敗作を読まされていていいのか、ということになりますが、やはりそれも必要なことなんじゃないかと思うのです。「見分ける 力」を養うには、踏み台が必要だということです。そうやって、作者と読者による一つのジャンルが成熟していくのだと思います。これは、文芸作品だけではな くて、たとえば日本のサッカー文化についても言えることで、私たちがJ2レベルの試合を見続けることと、いつの日にか日本のチームがワールドカップで優勝 することは、ちゃんとつながっているはずなんです。たとえ、見続けている者の目には、無知なアナウンサーがくだらない実況をしていると思えても、それもま た……話がずれました。

結局私は時代小説を読み続けてきて、山本周五郎的な意味で物語から生きる力を与えてもらっただけではなくて、翻訳という仕事のうえでも、今の力でで きる翻訳を(数年後に読み直せば「ヘタクソ」と思うだろうけれども)すればいいんだということを学んだ気がします。そして、こうして書いているこの駄文も また、きっとどこかにこれを受け入れてくれる、そして共に翻訳文化を高めていける読者がいるに違いないと、信じているのです。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2009年7月6日号)